結婚式はベルセバで

今でも心に残る音楽。いつの日か迎えたい結婚式では何を流そうか、その選択のために書いています。

「僕らの音」と「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」

私は、Mr.Childrenの音楽を聴くことはあまりない。テレビで歌っているのを見ても、食傷気味である。大したことを言ってないし、メロディーも退屈だけれど、サウンドは大仰。これが私の彼らの音楽へのイメージ、偏見である。最近の彼らの音楽に関してなら、同意して下さる方もいると思う。

しかし、Mr.Childrenの楽曲には、はっとさせる曲が何曲かある。彼らに上記のような偏見を持った私でさえも出会っているのだから、彼らのファンからしてみたら、そんな曲だらけなのかもしれない。

そんな中の一曲が、「僕らの音」である。この曲には、この世界の美しさが表現されている。気がする。私の頭の中でのこの曲は、秋の明治神宮周辺、国立競技場や西洋絵画館のあたりを早朝に散歩しているようなイメージだ。暑い夏が終わり、銀杏の木々が黄色に色付き始めようとする、誰もいない都会のど真ん中。世界の美しさはそんなところにも溢れているのだろう。

「名作と呼ばれる作品を見たり聴いたり、読みたりして」

なんて素晴らしい歌詞なのだろう。単純に愛を歌うより、美しく愛が表れている。愛が身近にあるからこそ、人は背伸びもするし、その結果として美しさを感じられる。この歌詞から想起されるイメージは無限大で、この世界に生きる意味をどこまでも喜んでいるようだ。先人達の蓄積の上に、美しさはある。そんな謙虚さをも、愛は呼び起こす。

このイメージと、完璧に重なる「名作」がある。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」である。この両者の作品を並べたら、それぞれのファンに怒られそうだが、どちらも褒めているのでご勘弁いただきたい。

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」では、前述の地帯が具体的に登場する。だから私の頭の中でこの二つの名作は繋がっているのかもしれない。しかし、それだけではない。「世界の終わり」の主人公は地上に戻ってから、世界の美しさを痛感するようになる。この作品でも世界の美しさがとても魅力的に表現されているのだが、それは「世界の終わり」が近づいているからだけではなく、主人公が再び愛に引き寄せられかけているから、ということもあるだろう。

世界の美しさだなんて、何と陳腐な言い方なのう。この文章は小説ではないから、こういう安い表現になってしまうのが悔しい。

小説、歌詞の力はその部分にあるのだ。何かを伝えるために、直接的な単語に置き換えるのではなく、様々なイメージをコラージュしていく。世界の美しさを表すのなら、「世界は美しい」とは書かず、美しいものをひたすら塗り重ねていく。そして、構成要素がシンプルであればあるほど混じり気のない作品へと仕上がる。

こうして文章を書いて、私が最近の両者の作品を好きになれない理由が分かった。

混じりまくっているからだ。要らないものが。だから安くなる。飽きる。

褒めているのかダメ出ししているのかよく分からない締めになってしまったが、きっとこの世界は美しいのだ。安い言い方だけれど。