結婚式はベルセバで

今でも心に残る音楽。いつの日か迎えたい結婚式では何を流そうか、その選択のために書いています。

Blur "For Tomorrow"

クリスマスソングだ。こんなに完璧にクリスマスの朝の凛とした、あの空気感を表現できるメロディがこの世にあったのか、そんなことを感じる。クリスマスの朝に早く起きすぎたイギリス人の青年が、暖炉の前でコーヒーでも飲んでいる、そんなイメージだ。イギリスには行ったことがないけれど、イギリスっぽい。

何かのインタビューでデーモン自身が「この曲はクリスマスに大急ぎで書いた」と言ったことを話していた気がするからこそのイメージかもしれない。「自宅で作っていたら父親が起き出してきてどうのこうの」なんて話もしていたような。何とも微笑ましいエピソードだ(ほっこりするって表現、頭に来る!)。

ただ、この曲は単純なクリスマスソングではない。美しい孤独感と、寒い冬に暖かさで包まれているかのような安心感。その両方がメロディに乗っている。そして何より、1993年という時代が感じられる。

今の世界から見た1990年代は、何だか違う世界のようだ。2012年の"Park Live"におけるこの曲にも1990年代の空気感はしっかりと残っていたから、メロディそのものが醸し出すものなのだろう。2014年から見た2000年は今の世界と同じ線の上にあるけれど、1999年は違う。何が変わったのだろう。

「それはいつでもそこにある。変わっているのは、いつだって君の方だ」そんな内容がサリンジャーの小説に書いてあった。大人になっても、変わっていくものなのだろうか。かつて「シーモア」を名乗っていた彼らの音楽からそんなことを考える。

そんな大きなテーマが、このどちらかと言ったら淡々としたメロディから染み出してくる。考えると切なくなる孤独、喪失、戻らない時間。辛いのに、そこに浸りたくなってしまう。引きずり込まれて、身を委ねたくなる。

それにしても、ブリットポップはすごい時代を築いたのだなぁ。くるりの最近の曲(Everybody feels the same)に並べ立てられているバンドたちの曲は決して色褪せていない。世界は変わってしまっても、人々が本当に求めている音楽は変わっていないのかもしれない。少なくとも私の場合は。

それにしても、この頃は音楽という音楽が聞こえてこない。それは日本に限った話ではないだろう。イギリスの音楽もパッとしないよ。新しい音楽に出会えない。自分の心の中に残ったものを掘り起こしてCDをかけるしかないのだ。変化に取り残されているだけかもしれないけれど。

1993年には朧気ながら見えていた明日が、見えなくなっているのかもしれない。

Oasisというバンド

Oasisというバンドは、実に様々な評価をされている。美しいメロディへの素直な賛美、ロックスターとして君臨するリアムの立ち振舞いへの憧憬、アンディのいぶし銀の輝きへの支持、等々。その一方で、The Beatlesの二番煎じと言った声もあれば、洋楽の世界への入口でしかないと言う人もいる。時代の遺物として扱う人すらいる。

これらはきっと全て当たっている。陳腐な言い方ではあるが、好き嫌いなんて人それぞれだ。それはThe Libertinesだってそうだし、Blurだって同じだろう。The Beatlesですら先代の音楽の模倣だと言う人だっているくらいなのだから。

ただ、音楽好きを自称する人の中で、一番好きなバンドとしてOasisの名前を挙げる人がほとんどいないということは確かなことのように思える。私は出会ったことがない。そして私自身もその一人である。

以前の記事でも書いている通り、私の音楽との出会いはOasisである。その出会いによって、私の価値観は大きく変わった。その結果、人生そのものも大きな影響を受けているだろう。しかし、彼らがいつだって私の中で世界最高のバンドであったかと言われれば、そんなことはない。正直な話、彼らの音楽をここ数年聴いてもいない。でも、彼らは特別なのだ。誰がOasisを貶そうとも、例え自分自身がより上質だと感じる音楽に出会おうとも、それが揺らぐことはない。

「僕らの音」と「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」

私は、Mr.Childrenの音楽を聴くことはあまりない。テレビで歌っているのを見ても、食傷気味である。大したことを言ってないし、メロディーも退屈だけれど、サウンドは大仰。これが私の彼らの音楽へのイメージ、偏見である。最近の彼らの音楽に関してなら、同意して下さる方もいると思う。

しかし、Mr.Childrenの楽曲には、はっとさせる曲が何曲かある。彼らに上記のような偏見を持った私でさえも出会っているのだから、彼らのファンからしてみたら、そんな曲だらけなのかもしれない。

そんな中の一曲が、「僕らの音」である。この曲には、この世界の美しさが表現されている。気がする。私の頭の中でのこの曲は、秋の明治神宮周辺、国立競技場や西洋絵画館のあたりを早朝に散歩しているようなイメージだ。暑い夏が終わり、銀杏の木々が黄色に色付き始めようとする、誰もいない都会のど真ん中。世界の美しさはそんなところにも溢れているのだろう。

「名作と呼ばれる作品を見たり聴いたり、読みたりして」

なんて素晴らしい歌詞なのだろう。単純に愛を歌うより、美しく愛が表れている。愛が身近にあるからこそ、人は背伸びもするし、その結果として美しさを感じられる。この歌詞から想起されるイメージは無限大で、この世界に生きる意味をどこまでも喜んでいるようだ。先人達の蓄積の上に、美しさはある。そんな謙虚さをも、愛は呼び起こす。

このイメージと、完璧に重なる「名作」がある。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」である。この両者の作品を並べたら、それぞれのファンに怒られそうだが、どちらも褒めているのでご勘弁いただきたい。

「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」では、前述の地帯が具体的に登場する。だから私の頭の中でこの二つの名作は繋がっているのかもしれない。しかし、それだけではない。「世界の終わり」の主人公は地上に戻ってから、世界の美しさを痛感するようになる。この作品でも世界の美しさがとても魅力的に表現されているのだが、それは「世界の終わり」が近づいているからだけではなく、主人公が再び愛に引き寄せられかけているから、ということもあるだろう。

世界の美しさだなんて、何と陳腐な言い方なのう。この文章は小説ではないから、こういう安い表現になってしまうのが悔しい。

小説、歌詞の力はその部分にあるのだ。何かを伝えるために、直接的な単語に置き換えるのではなく、様々なイメージをコラージュしていく。世界の美しさを表すのなら、「世界は美しい」とは書かず、美しいものをひたすら塗り重ねていく。そして、構成要素がシンプルであればあるほど混じり気のない作品へと仕上がる。

こうして文章を書いて、私が最近の両者の作品を好きになれない理由が分かった。

混じりまくっているからだ。要らないものが。だから安くなる。飽きる。

褒めているのかダメ出ししているのかよく分からない締めになってしまったが、きっとこの世界は美しいのだ。安い言い方だけれど。

フィリピンの椎名林檎?

フィリピンで、 Kitchie Nadalという歌手のライブを見た。私は名前を聞いたことがなかったが(名前が筆記体で書かれており、AKB48のきたりえ?と思ったレベル)、非常に面白い経験だった。

キッチー・ナダルはフィリピンでは大変な人気歌手であるようで、バンドとして活動したり、シンガーソングライターとして活動したりと、ユーミン椎名林檎のような存在のようだ。エレアコ、エレキの両方を使い、観客に歌い掛ける。面白かったのが、それに対する観衆の反応だ。叫ぶ叫ぶ。黄色い声援が飛ぶ。女性客が多かったイベントではあったが、男性客の存在感は皆無。コール&レスポンスを越えた合唱となっていた。サポートのスキンヘッドのギタリストもノリノリで、東南アジアの音楽って、こう言うのもあるのか、と素直に受け止めた。リフレインが多い曲作りの影響もあるかもしれないが、ライブから数日経った今も、メロディ、彼女と観客の声が聞こえ続けているようだ。

(写真と実物の差が少しあったな、とは思ったけれど )

歌の上手さは一級品だった。前後のイベントのダンスも含め、東南アジアの勢いを感じた夜となった。

Kasabian "British Legion"

私は高校生の頃、Oasisばかり聴いていて、他の音楽を必要としていなかった。ただ、彼らのインタビューの中で、Kasabianという名前が頻繁に出てくることで、彼らの名前は頭の片隅に残った。そして高校卒業を間近に控えた頃、私はKasabianのCDに手を伸ばすこととなる。

1stの一曲目であるClub Footに度肝を抜かれた。メロディアスとは言えず、耳に優しい曲調でもない、初期のOasisの曲とは相容れないものであったけれど、Standing …以降、Dig out Your Soulまで聴き込んでいた私には、その延長線としてすんなりと馴染んだ。Kasabianの方がDig out Your Soulより古いのだが、私にとっては順番が反対なのだ。

考えてみれば、Kasabianとの出会いは、Oasis以外にも素晴らしいバンドが存在するのだという当たり前のことを気付かせてくれた。彼らもまたスタジアムを揺るがすようなタイプのバンドであり、私の嗜好はまだまだスタジアムロックに縛られていたと言えるけれど。

しかし、結婚式にClubFootと言う訳には行かない。「式場が乗っ取られたのでは?」というパニックを生みかねないから。ここは、2作目収録のBritish Legionだろう。この曲はメインボーカルのトムではなく、ギタリストのサージが歌っている。スタイルとしては、Don't Look Back in Angerに似ている。曲の美しさも、私には互角に思える。Don't Look Back in Angerのように思い入れがある訳ではないけれど、音楽単体で聴くならば、この曲も相当素晴らしい。

全てが柔らかく、優しいのだ。目をつぶってこの曲を聴いてみていただきたい。圧倒的な柔らかさに包まれる。過去に帰りたくなる。今が幸せであっても、きっと過去に帰りたくなる。メロディだけで、そんな気持ちにさせられる。

Oasis "You've Got the Heart of a Star"

たしか、"Songbird"のB 面に入っていたはずだ。YouTubeでこの曲のビデオに出会い、私はSongbirdのシングルを買った。国内版には収録されておらず、UK版を手に入れたことを覚えている。

私がYouTubeで見たあのビデオはオフィシャルのものだったのだろうか。シングルB面というこの曲の立ち位置を考えれば、誰か個人が作ったもののような気がする。

そのビデオは白を基調とした柔らかい映像で、取り壊される前のウェンブリースタジアムでの彼らのライブが収められていた。ステージ上のバンドというよりは、スタジアムに向かう観客たちの映像やウェンブリースタジアムが刻んできた歴史を示す描写が印象に残っている。Let There Be Loveのビデオをより明るく、柔らかくしたような印象だ。YouTubeを探せばまだ見られるかもしれない。

そのビデオとこの曲の持つ多幸感と言ったら、なんと表現すれば良いのだろう。この曲は、ノエル・ギャラガーという素晴らしいミュージシャンの最高傑作の一つだと思う。

この曲にはまっていた頃、私は高校生で、窓際の席に座っていた。季節は冬で、桜の木々に葉はなく、寒さから護られた教室は、何となく切なかった。あの切なさは何だったのだろう。今になってみれば、高校生活に思い入れはないのに。難しい数学や物理など、黒板を眺めていることすら苦痛な授業中、私の頭の中にはずっとこの曲が流れていたものだった。そして、それは外の世界と不思議とマッチしていた。どこにでもある、ありふれた、見慣れた冬の風景。時折通りかかる人たちは、スーパーのレジ袋を提げた主婦や高齢者ばかりだった。そんな光景が、幸せの象徴のように感じたのだ。大きな袋を提げていれば、家族の存在を思い浮かべたし、小さな袋なら、文字通りのささやかで慎ましい幸せがイメージされた。この曲は、ひねくれた高校生に無批判な眼差しを与える、そんな力を持っているのだ。

もちろん、この曲の魔力だって長くは続かなかった。ただ、17歳というあの時期に優しい気持ちになれたことはとても幸運なことだったと思う。優しさを自分への甘さに転嫁して、人生が上手くいかなくなった気もするけれど、無駄ではなかったのだと今になって感じる。今年も冬が近づいているからだろうか。

衝撃のスタジアムロック Oasis "Don't Look Back in Anger" (後)

高校生の頃に通ったスタジアムで流れていたこの曲は、私にとって全く新しいものだった。この曲が、私の音楽の原体験と言える。自発的に音楽を聴くことなんて、なかったのだから。

イマジンを思わせる、優雅なピアノの音が聞こえたと思うと、すぐにエレキギターが絡み、ドラムが流れ込む。良い曲は、出だしから素晴らしいものなのだ。ぐいぐいと引き込まれて、気が付けば大合唱。こんなに完璧なメロディがあったんだ、そんな感慨すら覚えるほどの一度聴いたら耳から離れない、合唱ポイント。そこだけではない。その合唱に至るまでの道筋、曲の終わりまでのアウトロを含めて、心が躍り続ける。この曲は、私にとって特別なのだ。

私自身はライブであの合唱に加わる経験は出来なかった。私が初めて生で彼らの演奏を聴いたとき、この曲は「ノエルのアコースティックコーナー」のものとなってしまっていたからだ。もちろん客席は合唱を許されていたし、私も周囲に合わせて声を出した。でも、やっぱりこの曲の凄味はアコースティックで表現される種類のものではない。私にとっては。私にとってのこの曲は、スタジアムのような広い空間に誇らしげに鳴り響く、最高にカッコいいロックンロールの象徴なのだ。

歌詞の内容は感傷的なところもあるし、テンポや音量が下がっても、メロディは美しいままだ。だから、アコースティックでも許されてしまう。ただ、2005年くらいまではフルバンドでやっていたはずなのに、どういった心境の変化があったのだろう。このバンドの何かが失われ初めていたのだろうか。

アコースティックのこの曲にあまり興味がないように、Oasis解散後の彼らの音楽は聴かなくなってしまった。Beady Eyeの解散も、発表から1ヶ月が経った先頃知ったのである。

アコースティックのこの曲に興味がないとは言いつつも、このブログの趣旨である結婚式に向けてなら、ありかもしれない。いや、大いにありだ。なんといっても、特別な一曲なのだ。どんな形をとってもこの曲は美しいし、人々を感動させる。そして、何より私の心を震わせる。